プロレス人間交差点 佐藤光留☓サイプレス上野 前編「1980年生まれのプロレス者」 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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「人間は考える葦(あし)である」



これは17世紀 フランスの哲学者・パスカルが遺した言葉です。 人間は、大きな宇宙から見たら1本の葦のようにか細く、少しの風にも簡単になびく弱いものですが、ただそれは「思考する」ことが出来る存在であり、偉大であるということを意味した言葉です。


プロレスについて考える葦は、葦の数だけ多種多様にタイプが違うもの。考える葦であるプロレス好きの皆さんがクロストークする場を私は立ち上げました。



 

さまざまなジャンルで活躍するプロレスを愛するゲストが集まり言葉のキャッチボールを展開し、それぞれ違う人生を歩んできた者たちがプロレス論とプロレスへの想いを熱く語る対談…それが「プロレス人間交差点」です。

 
 
 

 

これまで2度の刺激的対談が実現しました。




プロレス人間交差点 棚橋弘至☓木村光一 


前編「逸材VS闘魂作家」  

後編「神の悪戯」 

 




3回目となる今回はプロレスラー・佐藤光留選手とラッパーのサイプレス上野さんによる対談をお送りします。

 

 

 

 

 

(この写真は御本人提供です)




佐藤光留

 1980年7月8日生まれ。岡山県岡山市出身。173cm 93.10kg 

主要タイトル歴:世界ジュニア、アジアタッグ、IJシングル 

スポーツ歴 :レスリング、柔術、墓石麻雀5級 

得意技: 蹴り、関節技、北斗百裂アウトレイジ野球 趣味・特技:釣り、きもちく拳法 

好きな有名人: 来栖うさこ、岬恵麻、エロマンガパンチ 

好きな食べ物: sio

 会場使用テーマ曲: 「俺ら代表取締役辞任するだ」鳥羽周作


1999年にパンクラスに入門。総合格闘技で腕を磨き、2008年よりプロレス参戦。以後、DDTや全日本プロレスで活躍、 全日本ジュニアに強いこだわりを持ち絶対的な中心を自負する。ミスター・天龍プロジェクトの異名も取る。'23年3月開催のジュニアの祭典では田口隆祐&今成夢人と変態トリオを結成。8月の自主興行ではエル・デスペラードと一騎打ち。〝現在進行形のU〟と称される大会「ハードヒット」のプロデュースも行っている。 




 

 




(この写真は御本人提供です)

 


サイプレス上野


サイプレス上野とロベルト吉野のマイクロフォン担当。通称『サ上』。

2000年にあらゆる意味で横浜のハズレ地区である『横浜ドリームランド』出身の先輩と後輩で、サイプレス上野とロベルト吉野を結成。"HIP HOPミーツallグッド何か"を座右の銘に掲げ、"決してHIPHOPを薄めないエンターテイメント"と称されるライブパフォーマンスを武器に、大型フェスやロックイベントへの出演、バンドとの対バンなどジャンルレスな活動を繰り広げ、ヒップホップリスナー以外からも人気を集めている。


2020年にはサイプレス上野とロベルト吉野として結成20周年を迎え、2022年3月16日には漢a.k.a GAMI、鎮座DOPENESS、TARO SOUL、KEN THE 390、tofubeats 、STUTSらが参加する7枚目のオリジナルフルアルバム「Shuttle Loop」をリリース。


現在、サイプレス上野は、テレビ東京「流派-R SINCE2001」、FMヨコハマ「BAY DREAM」にレギュラー出演中の他、TVCMナレーションなど、越中詩郎級の『やってやるって!』の精神で多方面に進撃中。


公式HP  http://sauetoroyoshi.com/






佐藤選手、上野さん、進行を務めた私も1980年生まれのプロレス者同士です。お二人のプロレスとの出逢い、1990年代のプロレスについて、好きな名勝負、今後について…。最高にディープでマニアックで、最初から最後までずっとゲラゲラ笑いながらプロレスを語らう対談となりました。この記事を読んでストレス発散やフラストレーション解消になれば幸いです!


 

是非ご覧下さい!




プロレス人間交差点 

「変態レスラー」佐藤光留☓「LEGENDオブ伝説」サイプレス上野

前編「1980年生まれのプロレス者」









「子供の頃は新日本か全日本に入ってプロレスラーになろうと考えてました」(佐藤選手)




──佐藤選手、上野さん、「プロレス人間交差点」にご協力いただきありがとうございます!今回は進行の私も含めて1980年生まれのプロレス者3人でワイワイとプロレス談義で盛り上がりましょう!よろしくお願いします!


佐藤選手 よろしくお願いいたします!


上野さん よろしくお願いいたします!


──まずはお二人のプロレスとの出逢いについてお聞かせください。


佐藤選手 僕は保育園の卒業文集で「プロレスラーになりたい」と書いているんです。恐らく4~5歳から見ていて、2代目タイガーマスクが活躍していた時代の全日本プロレスの記憶がうっすらあるんですよ。プロレスを初めて見て、とにかくカッコよすぎて衝撃を受けました。その後、音楽やアイドルに衝撃を受けましたが、プロレスを超える衝撃はなかったです。


──幼少期からプロレスを見ているんですね。


佐藤選手 一時期、『機動警察パトレイバー』を見過ぎて警察官になろうと思ったことはありましたけど(笑)。それ以外はずっとプロレスラーになりたかったんです。最初はテレビで新日本と全日本を見ていたのですが、小学4年生の時に同じクラスにいたプロレスファンの子に「週刊プロレスという雑誌があるぞ」と言われて読むと、新日本と全日本以外の団体や女子プロレスを知りました。でも子供の頃は新日本か全日本に入ってプロレスラーになろうと考えてましたね。


──ということは佐藤選手はプロレスに出逢ってから40年近くになるんですね。


佐藤選手 そうですね。だから本当にいい人生を歩んでいるなと思いますよ。パンクラスの入門テストは一度落ちて、高校卒業してから5月に再度入門テストを受けて合格して6月に入門したんですよ。プロレスラーになれなかったらという不安はほとんどなくて、プロレスラーにはなるものだと考えてました。その勘違いがいい方向に行ったのかもしれません。あと僕は人との出逢いには恵まれましたね。


──それはどういうことですか?


佐藤選手 当時のパンクラスは道場が船木誠勝さんの東京と鈴木みのるさんの横浜に分かれていて、試験の内容はダントツだったんですけど、船木さんが「俺、あいつの目が嫌い」と言ったらしいんですよ(笑)。


上野さん  ハハハ(笑)。


佐藤選手 船木さんは強そうな人間をピックアップして鍛えたらパンクラスは強くなるという考えだったんですけど、鈴木さんは面白い人間を揃えないと商売として成立しないという考え方でした。船木さんから外された僕は鈴木さんから「俺が面倒見るよ」と拾われてからパンクラスには入れたんです。それがなかったら僕は、今プロレスをやってないですよ。その時点からその後も漫画みたいな出逢いがたくさんあるので。人との出逢いの運だけは僕は尋常じゃないですよ。


──パンクラスの道場も東京と横浜に分かれている時代だったからこそ、入門できたわけですからね。


佐藤選手 そうですね。練習生がみんな使えないヤツばかりで辞めていって僕一人だけになって、他の先輩が「大変だね。俺も手伝うから頑張って」と励ましてくれる中で鈴木さんだけ「よかったな、使えないヤツがいなくなって。これでお前に好きにできるな」と言うんですよ。こんな発想の人、いないじゃないですか(笑)。


上野さん スゲェっすね(笑)。


──鈴木選手「プロレスをやりたい」と相談した時に偶然、DDTの高木三四郎社長から鈴木選手に電話があったんですよね。


佐藤選手 「プロレスに参戦するならどこに電話しようかな」と車の中で鈴木さんと話していたら鈴木さんの携帯に高木さんから「今度、ハードヒットというUWFっぽいブランドを立ち上がるのですが、鈴木さんのところにいたメイド服を着た選手いましたよね。その選手、プロレスやりませんかね?」と電話があって、二人でサブイボが立ちましたよ。これは超常現象レベルですよ。


──そこからのご縁からプロレスラーとしての佐藤選手の活躍に繋がっているわけですね。


佐藤選手 全日本に出るときも、ジュニアリーグ戦をやっていて、ジミー・ヤンを呼んだんですけど、結構ギャラが高かったので予算がなかったそうなんです。「新顔で誰を呼ぶのか」という話になって、武藤敬司さん(当時全日本社長)が「あいつでいいじゃん、鈴木の横にいるヤツ」と言ったらしいんですよ。そこから全日本に参戦することになって、リーグ戦は決勝には行けませんでしたが、たまたま用事がなかった大和ヒロシがいて、あいつとお互いに顔面から血が出るほど殴りあってウケたんです。それが当時のマッチメーカーにツボにハマって二人の抗争を続けることになったんですよ。




「プロレスというよくわからなくて自分の中で嚙み砕くことができない魑魅魍魎な世界の動向を東京スポーツを読んで味わってました」(上野さん)




──そこからずっと佐藤選手は全日本に参戦を続けているわけですよね。では上野さん、よろしくお願いいたします。


上野さん 俺の兄貴2人がプロレスファンで幼稚園の頃からテレビの前に座らさせられてプロレスを見てましたよ。最初は「これが面白いんだぞ」と完全に言わされている感じで、「お前はプロレスを好きになるんだぞ」という洗脳を受けている感じでした。親はあまりプロレスを好きじゃなかったけど、兄貴2人の影響をモロに受けてずっとプロレスを見続けています。


──佐藤選手も上野さんも幼少期からずっとプロレスを見ているということですね。


上野さん 佐藤選手と完全に同じとこを見ているんですよ。2代目タイガーマスクの試合も見てますし、土曜夕方4時に放送していた新日本も見ていて、蝶野正洋選手のCM(日本文化センターのテレフォンショッピングでパワートレーナーというトレーニング機器を蝶野選手が紹介する内容)を流れていて「俺も鍛えなきゃいけない」と思ったりとか(笑)。あと兄貴の英才教育で、週刊プロレス、週刊ゴング、東京スポーツはずっと読んでました。



──おおお!それは猛者ですね!


上野さん プロレスというよくわからなくて自分の中で嚙み砕くことができない魑魅魍魎な世界の動向を東京スポーツを読んで味わってました。


佐藤さん 東京スポーツでは余裕でネッシーとか捕まってましたもんね(笑)。


上野さん ハハハ(笑)。


──東京スポーツのネッシーネタをワイドナショーが取り上げるんですよ(笑)。


上野さん UMAとネッシーの第一報は大体、東京スポーツなんですよ(笑)。


佐藤さん ハハハ(笑)。


上野さん これはプロレス絡みのインタビューで話してもなかなか乗せてくれないんですけど、亡くなった真ん中の兄貴が俺に寝床でやっていたのが「ハル薗田」というずっとゴロゴロ転がりながらやる謎の技をかけられたりとか(笑)。ヒップホップで言うディグ(ラッパー・DJなどが、過去のレコードを堀り探すことを意味するヒップホップ用語)みたいな感じで、オールドスクールなプロレスも掘っていかないといけないなと思って、兄貴たちが持っていたプロレス本や雑誌を読み漁ってましたよ。


──週刊プロレス、週刊ゴング、東京スポーツを買い揃えているのは相当なマニアですよ。


上野さん あと週刊ファイトも買ってましたよ(笑)。中学になって街に出ると誰よりも早く読みたいから自分で週刊ファイトを買うと、兄貴も週刊ファイトを買っていて、親父に「なんで同じ本が3冊もあるんだよ!」と怒られたりとか(笑)。プロレスを好きな友達には出逢わなかったんですけど、兄貴2人が凄すぎたので、この2人に勝たないという想いでプロレスを深く掘るようになりましたね。





──10代で週刊ファイトのI編集長の洗礼を受けたのは凄いですよ。


上野さん 戸塚のローソンで週刊ファイトを買って「やっぱりプロレスは底が丸見えの底なし沼」と思いながら読んでました。


佐藤選手 週刊ファイトはたまに本当のことがスクープであるんですよ。


上野さん そうなんですよ。さすがに大阪の新聞社はヤバいな、違うなと思ってましたよ!本当に絶妙なんですよね。


佐藤選手 カート・アングルのプロレス転向を日本で最初に報じたのは週刊ファイトだったと思いますよ。


上野さん えええ!そうなんですね!


佐藤選手 鈴木さんは「ファイトだもんな」と言ってましたね(笑)。


──ハハハ(笑)。


上野さん 全部飛ばし記事みたいな新聞がコンビニや駅で買えたのですから凄い時代ですよ(笑)。




「インディー団体の選手も『誰だよ、これ』と言いたくなる方が多くて、幸村ケンシロウという選手がいるんですけど。ここで話してお二人が頷いているのが本当に怖いですけど(笑)」(佐藤選手)




──確かに!佐藤選手も上野さんも思春期に見たプロレスは1990年代のプロレスだったと思います。この時代のプロレスについてお二人の想いをお聞かせください。まずは佐藤選手、お願いいたします。


佐藤選手 『G1 CLIMAX』が始まったりとか色々とあった1990年代ですが、僕も上野さんもジャストさんも『三年B組金八先生』世代じゃなくて、アントニオ猪木さんもセミリタイアしていた頃からプロレスにどハマりしているはずなんですよ。ジャイアント馬場さんは『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』に出ている印象が強いですし、アブドーラ・ザ・ブッチャーは本当に実在しているんだとか、闘魂三銃士が台頭して、ジャンボ鶴田さんはギリギリ全盛期は見れたかなという時代の変革期で、新しいことを始めていてプロレスに入りやすかったような気がします。


──同感です!


佐藤選手 これは漫画でもそうなんですけど、さっき上野さんがおっしゃった魑魅魍魎という言葉は、悪の四天王の下にいる雑魚キャラの中にもドラマがあるんだということを当時の泡沫インディー団体が教えてくれたんですよ。これが今の僕の人生に凄く大きな影響を受けているなと。生まれた時から実家がお金持ちでいい体験をたくさん積ませてもらっている人がいたとして、その人はいいものを10知っている。でも僕はいいものを5までしか知らないけど、0から下のマイナスを10知っている。そうなると僕の知識量は15なんですよ。悪いものを知っていても知識に含まれるわけで、いいものだけを知っているだけでは他には勝てない。これはインディー団体を見ていたからこそたどり着いた僕の結論なんですよ。プロレスそのものがまだ「なんでこんなものを見ているんだ」と世間から偏見の目で見られている時代にインディー団体が無限増殖していくわけですから(笑)。


上野さん 確かにそうですよね!


佐藤選手 「俺はこんなプロレスを知っているんだぞ」と。新しいレンタルビデオができたら、必ずプロレスコーナーに行って、まだ誰も見ていないドインク・ザ・クラウンが特集されているアメリカのビデオを借りたりとか(笑)。インディー団体の選手も「誰だよ、これ」と言いたくなる方が多くて、幸村ケンシロウという選手がいるんですけど。ここで話してお二人が頷いているのが本当に怖いですけど(笑)。


上野さん ハハハ(笑)。


佐藤選手 誰も知らないですよ(笑)。幸村ケンシロウが1998年に静岡で開催された柔術の大会に出ていて、僕も高校レスリングを卒業して、まだ実戦を積みたかったので親に許可を取って新幹線で移動してその大会に出たんですよ。この大会は北岡悟も出てたらしいんですよ。大会の出場選手名簿を見ると幸村ケンシロウがいるんですよ。あの幸村ケンシロウ

なのかと(笑)。恐らく自分がプロレスをやっていることを知っている人はいないと思ってエントリーしたはずなんですよ。でも幸村ケンシロウにやたらと熱視線を送る高校生がいたんですよ、それが僕ですよ(笑)。


──最高じゃないですか(笑)。


佐藤選手 地元に帰って「柔術の大会に幸村ケンシロウが出てたよ」と言っても誰も知らない(笑)。それが快感でした。


上野さん それはヤバい(笑)。


──幸村ケンシロウさんは西日本プロレスの印象が強いですね!


上野さん 確かに!


──当時の週刊プロレスや週刊ゴングが末端のインディー団体でも取り上げてくれたから知識量として幸村ケンシロウさんを知っている人はいるかもです。今のファンは幸村ケンシロウさんは確実に知らない人がほどんどでしょうね(笑)。


佐藤選手 ハハハ(笑)。


上野さん 知らないでしょう!多分日本だけじゃなくて世界で、今の時代に幸村ケンシロウの話をしているのはこの対談の場だけですよ(笑)。俺も何十年ぶりにその名前を聞きましたよ(笑)。


佐藤選手 1990年代だとメジャーでは長野さんがG1優勝したり、nWoTシャツが流行ってみんなで着てたりとか。でもメジャーだけを知っていてもプロレスファンを名乗っちゃいけないんだというある種の義務感はありましたね。


上野さん その気持ち、よく分かります!




「俺はメジャーもインディーも大好きで、学校とかで『プロレス知っているよ』とか言われると『お前に何が分かるんだよ』という反骨心を抱いてました」(上野さん)




──メジャーもインディーの双方を知っておくのは大事ですよね。佐藤選手から幸村ケンシロウさんという衝撃のパワーワードが飛び出しました(笑)。あとクラッシャー高橋さんとかもあの時代のインディーらしい選手ですよね。


上野さん ハハハ(笑)。


佐藤選手 クラッシャー高橋さんは一回、試合をしたことがありますよ。館山の自衛隊がやるお祭りでNOSAWA論外さんが「佐藤君、リングを運んでくれない?」と言われて、メインイベントの6人タッグに出ると対戦相手のひとりがクラッシャー高橋さんでした。凄いおとなしくて、クラシックなアメリカンプロレスをやる人で全然クラッシャーじゃなかったですよ(笑)。


──ハハハ(笑)。では上野さん、1990年代のプロレスについて語ってください。


上野さん 佐藤選手とは恐らく通っている道が一緒なのでインディーの話をすると尽きないと思うんですよ。


佐藤選手 マジですか!


上野さん 先ほど佐藤選手が話題にしましたけど、nWoが大ブームだった頃に、初めて組んだラップグループで「みんなでnWoTシャツを着てライブしよう」と提案して、六本木の闘魂ショップに買いにいったのをよく覚えていますよ。地図も読めなくてどこにあるのかも分からなくて、しかも真夏でめちゃくちゃ暑くて「コンクリートジャングルってこういうことだな」とか言いながら彷徨ってなんとか買えたんですよ。nWoTシャツは買えてライブに挑んだんですけど、それが散々な内容で終わって、最終的にライブ後にみんなで喧嘩になりました(笑)。


佐藤選手 ハハハ(笑)。


上野さん 俺はメジャーもインディーも大好きで、学校とかで「プロレス知っているよ」とか言われると「お前に何が分かるんだよ」という反骨心を抱いてました。ちょうどその頃は日本語ラップのUSヒップホップでもメジャーシーンに対してアンダーグラウンドヒップホップには対抗心があって、アンダーグラウンドにいるヤツらのレコードを持っている人間はヤバいという風潮があったので、プロレスと似ていて凄く居心地がよかったんですよ。インディープロレスもアンダーグラウンドヒップホップも好きだったので。プロレスもヒップホップも「お前らが知らない世界を俺は知っている!」と自分の酔っているところはありました(笑)。




「上野さんが自分に酔うという話をされていましたが、僕だったら冴夢来プロジェクトの岡山大会でミノワマンさんの試合を見たことがあって(笑)」(佐藤選手)



──プロレスとヒップホップも親和性があったんですね!


上野さん 高校を卒業してラッパーを目指そうと考えたのですが、なぜか大道塾の門を叩いていたんですよ。修斗と『THE WARS』で対抗戦をやっていた時で、修斗はメロコアのバンドとか例えばBRAHMANとかは佐藤ルミナ選手と仲が良かったんですけど、俺たちはそうじゃない。市原海樹という偉大な先輩がいるし、俺はこっちで喧嘩空手をやるしかないだろうと。でも大道塾で黒帯とかWARSに出場されていた強い方に当たってボコボコにされて、「これはもう無理だ。おとなしくラップやろう」と思いましたよ(笑)。


佐藤選手 全然、おとなしくないじゃないですか(笑)。


上野さん もうラップと格闘技の両立は無理だと(笑)。


佐藤選手 上野さんが自分に酔うという話をされていましたが、僕だったら冴夢来プロジェクトの岡山大会でミノワマンさんの試合を見たことがあって(笑)。


上野さん それはヤバい!


佐藤選手 そのメインイベントが剛竜馬&タイガー・ジェット・シンVSザ・グレート・センセイ&忌神だったんですよ(笑)。


上野さん ハハハ(笑)。


佐藤選手 岡山は新日本と全日本が年2回来て、全日本女子プロレスやFMWがたまに来る所なんですよ。冴夢来プロジェクトの興行はかなりガラガラだったんですけど、第1試合が菅沼修VS美濃輪育久(現・ミノワマンZ)だったんです。この試合で美濃輪さんに惚れちゃって、ファンになりました。ちなみに美濃輪さんがファンにした初めてのサインが僕なんですよ。


──ええええ!


佐藤選手 冴夢来プロジェクトのパンフレットを買うじゃないですか。それが半年前のもので、掲載している選手が出ていないとか。ダフ屋が束のようにチケットを持ってて、「有り金を全部出したら、入れてやるよ」って言われて、「高校生なんて500円しか持ってないです」と反社会勢力に僕は嘘ついたんすよ(笑)。向こうも気づいていたと思いますけど、入れてくれましたね。反社会勢力の人の優しさがなかったら僕はパンクラスに入ってないですから。


──確かにそうですよね。


佐藤選手 週刊プロレスで熱戦譜というプロレス興行の試合結果を伝えるコーナーがあって、そこで冴夢来プロジェクト岡山大会で出ていた美濃輪さんの名前を確認しました。格闘技通信と週刊プロレスを読むと、美濃輪さんはパンクラス・ネオブラッドトーナメントに出てその後パンクラスに入団しているので、僕もパンクラスに入りたいと思ったんですよ。


──冴夢来プロジェクトの存在は佐藤選手のレスラー人生において大きな分岐点になりましたか?


佐藤選手 そうですね。今いろんなところで菅沼修さんと会う度に周りに「僕がパンクラス入るきっかけとなった人です」と言うんですけど、「どういうこと?」と頭にくえっしょんマークがたくさん浮かぶわけです(笑)。



──ハハハ(笑)。


上野さん 話が変わりますけど、プロレスTシャツの作り方とかは非常に勉強になったんですよ。今の時代、プロレスも音楽のグッズもしっかりしたものを作って売らないとかなり文句を言われるじゃないですか。昔のTシャツはプエルトリコとかで作っているような代物なので、結構シワシワで(笑)。FREEDOMSとか来るメキシカンのレスラーが売っているTシャツを買うとあの頃に戻れて涙が出そうになるんです。「こんな粗末なもので、くるくる巻いても持ってきて売っているのか」と。俺もツアーとかに出るから気持ちが分かるし…。


佐藤選手 分かりますよ。


上野さん 特に後楽園ホールで買った剛竜馬選手のTシャツがあまりにもひどすぎて、後年自分だけのリメイクで作り直しましたよ(笑)。


佐藤選手 スゲェ!!


上野さん 本当にTシャツの素材がペラペラで、なんて言えばいいんだろう…。




──100均レベルですか?


上野さん 余裕で100均レベルです(笑)。


佐藤選手  ハハハ(笑)。


──今のTシャツの話は剛さんらしいですね(笑)。お金の汚さとか。


上野さん ハハハ(笑)。本当に現物を見せたいほどひどいんですよ(笑)。でも、あの時にプロレス界にしごいてもらったような気がしていて、Tシャツやグッズのクオリティーはどんどんよくなっていったのは嬉しかったのですよ。パンクラスとか凄いオシャレなグッズが出たりとか、あとW★INGのTシャツはマニアックでオシャレなヤツには響くアイテムが多

かったですね。ただプリントがどこの国でしているのか分からなくて匂いがヤバい(笑)。


──ハハハ(笑)。


佐藤選手 今は配信の時代でなんでも見れてしまうんですよ。簡単に見れて、見たらすぐに帰って「プロレスは面白い」だけで終わっている。それが案外、「このジャンルは大丈夫なのか⁈」と思う瞬間だったりするんです。グッズも粗雑なものを売るとSNSで批判されて、謝罪することになって「ちゃんとします」と交換商品が送られたりするじゃないですか。剛さんのTシャツのようなひどいものが今の時代に売られると「こんなものを買わせやがって!!」と批判の嵐になるでしょう。でもこのひどいTシャツをいいものにするにはどうすればいいのだろうという発想が今の時代では生まれにくいですよ。


上野さん 俺はそっちのほうに頭を使うのがプロレスだと思うんですよ。プロレスの受け身とか練習はしたことはないですけど、「今回は裏切られても次のTシャツの質はいいんじゃないか」とポジティブに考えたりしましたよ(笑)。


佐藤選手 僕はジャイアントサービスには恨みしかないですよ(笑)。


上野さん 馬場さんのTシャツもかなり素材が悪かったですから(笑)。


佐藤選手 どんなグッズを売店で買っても馬場さんがサインを入れちゃう(笑)。今振り返ると経験っていい経験ばかりが自分を強くするわけじゃないんですよね。「悔しい」「腹が立つ」といった経験の方が発見が多くて学べたりするんですよ。当時のプロレスに携わったときはいろんな経験をさせてもらって成長したなと思いますよね。


──あの時代にXとかSNSがあったらヤバかったでしょうね。


佐藤選手 もうアウトですよ(笑)。


上野さん 絶対アウトです(笑)。


(前編終了)